江戸時代。幕府は橋を架けなかった。それにより、川の両岸には宿場町が栄えたのだ。参勤交代に来た大名行列なんぞが、泊まるための町である。嵐にでもなって、川を渡れなくなりでもしたら、宿場町はおおいに儲かる。大名行列の参加者全員が、川を渡れず、もう一泊することになるからだ。
そんな時代に、「渡し」として一時代を築いた「渡し一族」がいた事はあまり知られていない。
彼らは、幕府直属の「渡し」である。彼らの地位は、地方大名よりも強かったといわれている。なぜなら、彼らが「渡さない」といえば、渡れないからである。彼らの地位は、今でいう国家公務員である。江戸幕府から派遣された武士なのだ。それゆえ彼ら一族には、名字がある。「角野」である。
「渡し長」は代々長男が継ぐと決まっている。特に、三代目渡し長「角野大五郎」は、優秀な渡しとして名高かった。彼の名(メイ)渡しぶりは、参勤交代の大名を通して、全国に散らばる角野一族に知れ渡り、角野一族の「渡し」のクオリティーを高めるほどであった。それゆえ、彼は、角野一族のヒーローとして代々語り継がれていった。
しかし、江戸も末期になると、渡し長の権威もなくなった。特に、地方の角野が身勝手な振る舞いをはじめた。彼らは、宿屋と裏でつながっていたのだ。つまり、川を渡れるにもかかわらず、従業員の調子が悪いなどという理由により、乗車拒否をして、宿屋から賄賂をたんまりと貰っていたのだ。
とはいっても、こんな時代が長く続くわけも無く、周知の通り大政奉還により彼らは、事実上失業した。なぜなら、明治政府がまず着手したのが、橋の建設であったからだ。これは、長い間「渡し」の横柄さに苦しめられてきた皇族の勅令によるものだという説も有力である。
そんな角野一族の行く末は、貴方の想像に任せる。「かすていら屋」に転職したものもいたであろうし、役人になったものもいたであろう。しかし、彼らは「平民」ではなく「士族」であったので、威張り続けていたであろうと想像するのは、たやすい事だ。
この文章は、全てフィクションであり実際の調査などには一切基づいていません。
何故このような、出鱈目(デタラメ)な文章を書く羽目になったのか?
本当は「何故私は書くのか」を書きたかったのだ。
私は、エッセイや詩を書く動機について、まじめに語りたかったのだ。
これこそ、編集後記にふさわしいではないか!
How suitable it is!
しかし、家のパソコンの変換能力の何と乏しいこと。
How poor it is!
「何故渡しは角野か」と変換しやがった。
ここで、私の心は揺り動かされたわけだ。
これは面白いかもしれない。
私は、負けたのだ。この誘惑に・・・・
今はただ、自分の意志の弱さを責めるばかりである。
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